17世紀のフランスの哲学者、ルネ・デカルト(1596~1650)は 心身二元論に基づいて哲学(科学)の原理としての近代的自我を確立したので、近代哲学の父と呼ばれている人です。 有名な言葉に「我思う、ゆえに我在り」(コギト、エルゴ スム Cogito,ergo sum)があります。 心身問題とは人間の心と身体の関係についての考察であり、哲学の伝統的な問題の一つです。 この問題はプラトン(前427~347)のイデア論や諸宗教の「霊―肉二元論」にその起源があります。 そしてデカルトが書いた『情念論』(1649年)にて、心身二元論を提示したことが心身問題にとって大きなモメントとなったのです。 現在では心身問題は、認知科学・神経科学・理論物理学・コンピューターサイエンスといった 科学的な知識を前提として語られているものであります。 このHPの「心と身体のつながり」で心と身体のつながりが感じられるというような文面を書いていますが 「つながりがあるだろう」とは考えられていますが、未だはっきりとは解明されていない分野なのです。 心に関してデカルトは 「心は非物理的な存在であり、心がどのようなものであるかは所有者本人にしか認識できないような主観的存在」 「各個人が自らの心について唯一の、特権的な立場を取ることができるもの」 と定義しています。 確かに他人の心を支配することはできないし、騙すことによって誘導することは出来ても特権的になることはできません。 我々は日常的に他人の心は分からないものだと感じることが多いと思います。 他人の心を勝手に想定してコミュニケーションを図っているに過ぎないのです。 だからデカルトの心の定義は正しいように思えます。 心と知覚(痛みなどの感覚)ですが、デカルトによれば 「空間に場所を占めるというのは心の存在の様式ではない。 したがって、心的状態を認識する仕方は知覚を通じて知る際に使う空間的概念を使って把握することができない」 といっています。 つまりこれは、心はどこにあるかわからないし、心が知覚する感覚を物理的に把握することができないということです。 このデカルトの記述について、人間の身体を空間的な箱型のモデルとして捕らえて 箱(人間の身体)の中の空間はウチであり、箱の外の空間はソトであると仮定し考えてみることにします。 そうすると箱のソトにいる観察者にとって、箱のソトとは直接知覚出来る空間であり、箱のウチは直接知覚出来ない空間だと考えられます。 では箱自体から考えるとどうなのかというと、箱には箱のソトの様子を知るため ソトに向かって目・鼻・耳・皮膚などの感覚器官がついているといえます。 よって箱のソトが直接知覚出来る空間であり、箱のウチは直接知覚出来ない空間ということになります。 しかしその一方で、内部感情を伴いながら箱のウチに存在すると考えられているのが心であり 箱自体(=身体)こそが自分の心が位置する空間であるともいえるのです。 つまり心とは、物理的に完全に身体の中にあるわけでもないが、だからといって外界にあるわけではなく その上、絶えず外界を注視し続けているような妙な存在だといえます。 それは心と外界との間には何の境界もなく、身体と身体以外のものに境界があるだけだからだとはいえないでしょうか。 デカルトは『情念論』のなかで 「身体は、動物と同じように心臓の熱機関を中心とする“自動機械”である」 と言う立場から、人間の身体的活動を機械論的に説明しています。 まだ脳の研究も今日ほど進んでおらず、無機的な身体をコントロールする脳との接点も松果腺のあたりだと説明しているくらいの時代にです。 そしてこの図式に則って「科学と技術の進歩が人間を病気や死の恐怖から解放するだろう」という見通しを デカルト自身が、次のように述べています。 「もしわれわれがその原因を知り、自然がわれわれに提供してくれている療法について充分の知識をそなえたならば われわれは肉体ならびに精神上の無数の病気、おそらくは老衰からさえも免れることができるだろうと確信している」
戻る
|